2019年8月3日土曜日

宮台真司さんと落合陽一さんの対談

宮台 元号が変わっても、実は何も変わってないよね。「言葉の自動機械」も相変わらずだし、法の奴隷も相変わらずだし。改元によって何の空気感も変わらなかったってのは、最近では初めてじゃないでしょうかね。
馬鹿騒ぎしてる人たちがいたけど、それはハロウィンの渋谷の馬鹿騒ぎとおんなじでね、それもまた「言葉の自動機械」なんですよ。

元号が変わったってことが、何が変わったのかってことをね、体感できない人、推測できない人があふれているというわけだよね。
元号が変わったってことは、基本的には今までの生き方を反省することなんですよ。それは昔の空気から自由になるので、新しい時代が始められるということなんだけれど、(令和の場合)そんな人はいませんよね。

三島由紀夫的にいうとね、日本には空っぽなあなただらけ。まわりが天皇主義の空気だと、「僕こそが一番の天皇主義でーす!」と手を挙げ、まわりが民主主義の空気になると、「はい!僕こそが一番の民主主義者でーす!」と手を挙げる。三島はこういうのを“一番病”と呼んでいて、日本人が、あるいは日本が如何に空っぽであるかっていうことを言っていた。

これは周りがなんとか主義だったら、みんな一斉になんとか主義になるわけよ。
心からね、天皇に心酔するとか、心からダイバーシティを愛しているとか、心から何かを願っているということがない。まわりが言っているとそれを言うだけっていうね。
だから、僕は目の前に言葉の自動機械が存在するだけで、人がいると思う必要がないと思っているわけ。人がいると思うとストレスになるでしょ? 
言葉の自動機械は伝わらないですよね。伝わるってのは、その言葉の外でつながるっていう感覚が生じた時だけですよね。

落合 共感性があるように見せかけて、排斥性の塊みたいな人。

宮台 多様性には二種類あるんだって、今から30年近く前にリチャード・ローティっていう人が言ってるんですね。メルティネスポートとサラダボウルの違いっていうふうにいわれるんだけど、多様性ったって、結局ゾーニングされてセグメントされているだけで、それぞれのクラスタの中には多様性に耐えられない神経質なヘタレがいる状況。

それとは別に、完全にフュージョンして、まさにそれはメルティネスポートですけれども、混ざり合いが快楽あるいは享楽であるような人。全然違うでしょ? だから、多様性といった場合にどちらを言ってるんだ。

で、落合さんが今いみじくも示唆されたように、結局、日本にいるのは、「多様性」「多様性」と口では言いながらね、少しでも自分とは異質な奴がいるとビビるようなヘタレばかりだ。だから、排斥性について言えばね、劣等感という不安を埋め合わせるために「日本はスゲェ!」と言っているのは、見る人が見ればすぐにわかるでしょ。

だから、日本人はみんな不安を埋め合わせるために何かをやっている感じになっていると思うんですよね。結局、まわりに合わせないといられないのも、そういうことだなってふうに思うし。

今、孤独死がすごく多くなってて、年間在宅死、15万人中、孤独死の方が公的な発表だと3万人を超えているんだけど、特殊清掃業者の方々は5万人を超えているだろうといってるんだよね。それで、そういうことが話題になってくると、「1人で死ぬのもいいものだ」っていう粉飾決算野郎が出てくるんだよね。

だって、自分のまわりでそういうことを言い出す奴がいたら、ヤバイよっていうじゃないですか? 結局、「1人で死ぬしかないな」って言ってる人間は、それを受け入れられないから、1人で死ぬのもいいものだってふうに、政府によるGDPの粉飾決算みたいなものとおんなじで、粉飾決算するわけですよね。

「自分には、結婚どころか、パートナーを見つける力もない。あるいは、友と絆を結ぶ力もない」と思う人間は、必ずといっていいほど「1人で生きるのもいい」って必ず言いだすんだよね。自分で選択できないものをあきらめている。あきらめたことを正当化するために、粉飾決算しているんですね。

本当につながっている関係であれば、言葉をしゃべってる時、あるいは、ちょっとしたしぐさの中で「あー、自分のこと思ってくれてるんだな」って感じられるだけで十分なはずなんだよね。

落合 不安を仕事で埋め合わせるのも、同じような感じだと僕は思ってて。

宮台 まったく同じだね!

落合 同じ思想で平成の時代は働いてきたんだと思う。で、その不安の埋め合わせを要は昭和時代の長い猛烈な働き方から、それをまあ多様にして、たとえばブランドバックが欲しいとか、家を買いたいとか、なんかそういったふうなもので埋め合わせしながら生きて、働いて…。どういったキャリアに乗ってくかってことで埋め合わせてきたのも、まったく同じことじゃないですか。

宮台 まったく同じですよね。だから、そういう人たちは、退職すると「濡れ落ち葉族」になるってのがね、もう2〜30年前から言われていることでね。ピースボートに乗った時にね、「元三井物産部長」って名刺を渡して出してきたクソの親父がいて…

落合 「元」って書いてあるんですか(笑)

宮台 そう、「元」って書いてあるんですよ。まぁ、そういう人たちがたくさんいるんだなぁと。それでも社会がまるで回っているかのように錯覚できたのは、物の豊かさを目標にできたでしょう。「今度、自動車が来る」「クーラーが来る!」から始まってね、家を買うとか、何から何まで関係の希薄さを物によって埋め合わせるという、本当に神経症的な症状の蔓延を、とくに男文化が助けてきたってところがあるよね。

落合 アクセサリーとして結婚したりとかする人もいますよね。あれは、今のソフトウェアみたいな社会の中で相対的にブランド品が価値を持たなくなったりすると、どうしてもそれが承認欲求に入れ替わって、アクセサリーの様にTwitterのフォロワーも持ってる。

そこで、SNSを見てても、発信するツールになってる人と、ただ単にタグが首からつくことに満足している人とで別れてきていると思ってて、でも、タグを首から下げる事に夢中な人はいつまで経っても救われないるつぼの中で、ずっとSNS場で喧嘩しているんだと思う。

宮台 そうだね。物にこだわる人も、どうしてもそれをまわりに承認してほしくてね、インスタとかいろんなSNSに載せるわけだよね。でね、本当に物があることが幸せで、その物と共にあることが幸せなら、いちいちそれを公開しないですよね。そこも神経症的な営みの巣窟になってますよね。

落合 その傾向が物質的だったら、ある程度測れたけど、物質的でなくなってくると、無限地獄になってくると思うんですよね。

宮台 今そうなってますよね。今食ってるものをインスタとかTwitterとかにあげるにしてもね、人に見てもらって安心するという営みが見えるじゃない。だから、それが浅ましくさもしく、みっともないんですよね。だから、もっと堂々と生きろよ、もっと自分に自信を持って。

神経症的なあり方の反対が、自己信頼を持つあり方なんですよね。だから、そういう存在は存在自体に重みがあるし、言葉にも重みがある。
 人は孤立すると不安になるので、その自分だけがつながっているメディアで不安を埋め合わせようとするんですよね。ヨーロッパに行けばすぐにわかるけど、多くの都市にはガードレールがないよね。じゃあ、危険じゃないかっていうと、「だから、気をつけてるんだよねー」って言って終わりなんだよね。

でも、日本の場合には「ガードレール付けてなかったからー!」って。「だから、事故が起こったんだよー!」って。妥当なこともあるので、えーほどほどにしときますけどね。ちょっとね、他の国に比べるとおかしいんですよね。

90年代半ば以降は、明らかに人々が不安を埋め合わせるために何かをしているって指摘できる様な感じがすごく増えてきちゃった。
まあ、三島さんが言ったように「からっぽなあなただらけ」っていうのは、まぁ、60年代からそうだった。(当時は)共通の前提があるので、からっぽじゃないように見えただけ。

落合 三島的な個のあり方を取っているように見えている人は、だいたいみんな風見鶏ですからね。

宮台 そうなんですよね。だから、落合さんには、ぜひ、そういうふうに人をいっぱい傷つけて、元の生活ができないようにしてほしい。アートの目的というのは、人の心に傷をつけることなんですね。レクリエーション(元に戻すこと)や、疲れから解放させることとは違う。傷をつけられたら二度と同じようには生きられないようにする。それが、アーチストの役目だとされてきた。19世紀に入るぐらいからね。

だってさ、元に戻ったって元(の社会の規範)がクズなんだからさ、元に戻ったら良くないじゃないですか。だから、傷をつけて「これでいいのか?」って思うことが必要。

落合 アーチストは自分の中の価値基準で物作ってるし、研究者は自分の中の価値基準と世の中がどこまで進んだかを見比べながら、「あー、これ、調べよう」と思って調べるわけじゃないすか。どちらも徹頭徹尾、自分かごく数人の仲間だけで完結するんですよ。だけど、足がつかなくなっちゃうと、いったい何のために何を買ったかもよくわからなくなる。
それはもう地獄で、それには最初から最後まで見通せる何かを、自分の中に確実に持っておくってことはすごく重要で、本当はね、料理するみたいに生きてればいいんですよね。

宮台 だから、僕はそこで大事なのが、自分も笑うことだとすごく思うんですね。人間は誰しもが神経症なんですよ。たとえば、僕ら物書きは締め切り間近になると、なぜか生活必需品のアレがなかったとかって、Amazonで急に買い物始めてしまうんですよね。でも、それをね、「あー、俺ってやっぱりダメだなー」って笑うことが大事なんだよね。

日本はもう、GDPから言っても、労働生産性から言っても、最低賃金から言っても、どんどん奈落の底に落ちつつあるのは明白。なのに、「日本スゲぇ」ってとか思ってるってね、なんかすごい、残酷なくらいにかわいそうだよね。自分を笑えてないわけ。

「日本はスゲェ」って神経症的な営みって、自分を笑えないってところに特徴があってね、これがすごくマズイ展開なんですよね。だから、僕も今申し上げた様に神経症的な所があるけれど、やはりそれをいつも笑いたいなと思ってる。多くのまともな人は、そうであるはずなんだよね。




≪感想≫
宮台さんの言ってることわかるなー、と思いつつも、なかなかやめられないんですよね。
言葉の自動機械でいることを辞めたいとは思いつつも、仲間や親友と呼べるような、絆を結べるほどに信頼できる相手ってなかなか見つからないし、集団の中で孤立してしまって、すがるものや、心の拠り所が無くなってしまうと、SNSや顔の見えない関係性に承認されようと必死になってしまうんですよね。

わたしもかつてはそうでした。大学で友達もおらず孤立する中で、承認を求める、無限地獄のるつぼに、嵌っていたのだと思います。しかし、ネットの関係性に承認を求めたところで、埋め合わせが満足にできることはありません。
ボランティアなどをする中で、社会の中に居場所の様なものを、作り出そうともしましたが人助けをして、一時的に承認されたとしても、寂しさの埋め合わせになるわけがありません。

大学で知り合った、重度障がい者の同級生の就活を支援しようとしたことがありました。
大学を卒業した、障がい学生はみんな、福祉作業所に行きます。作業所の賃金は一日300円です。
その現状を変えようと活動したことがありましたが、その時の私の考えこそ、空っぽだったのではないかと思います。
障がい者当事者や福祉の現状などを考慮することなく、何も現状を変えようとしない体制だけを巨悪とみなしていた、考えは、多様性を認めるべきだと主張するなかで、障がい当事者を排斥する多様性一番病に陥っていたのだと思います。

宮台さんの言う通り、ダメな自分をどうしようもないなぁと認めつつも、笑って許したうえで、まずは、その問題を自覚することが大切なのだと思います。
そうした問題を問題として自覚することのできない、神経症的な人間が増えているのかもしれません。


宮台真司さんは沖縄に関しても多くの著作があります。




講演会「宮台に聞け!」
◎日時:2019818() 19:0021:00
◎会場:浦添市産業振興センター結の街 3F大会議室
 〒901-2122 沖縄県浦添市勢理客4丁目131
◎地図:下の図を参照


◎料金:前売り2000円/当日2500(※18歳未満は無料。子連れ歓迎)
    ※予約しておくと、当日受付で前売りの額面でお支払いできます
    下のQRコードをスマホで読むと予約サイト飛びます。
◎予約期間:8月5日(月) 以後は下記のメールにお名前を送ってください。お早めに!
◎問い合わせ:miyadai.okinawa@gmail.com
       TEL08064945346 (担当:島袋)
◎チラシ:以下のリンクからダウンロードし、友人・仲間に配布しよう!
     http://www.createmedia.co.jp/img/okinawa-miyadai.pdf
◎スタッフ募集中:上記の問い合わせからお早めにご連絡ください!
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